毎日がプロローグ

✳︎はみだした日常✳︎ 日常と非日常の狭間で、感性が研ぎ澄まされてゆく物語。

環境には×× 自由には〇〇

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僕は現在、1年半の休学を終え愛媛の大学に復学しました。この文章は、21歳の僕が感じる等身大のままに書いてみようと思います。

 

 

1年半前、以前の記事でも書いたように、僕は大学へ休学届を出し《1年半》という時間を取る選択をしました。そして今、当時の気持ちを振り返って気づく事があったので、書き綴ります。

 


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1年半前、世界一周を試みるために休学届を出しました。

 

言い方を変えれば、愛媛の家や学校を手放す選択をしました。そしてその時、お金も家もない僕の手元に残ったのは『1年半という膨大な時間だけ』でした。

その時に人生で初めて味わった、計り知れない"虚無感"と"恐怖心"

 

 

 

 


「僕は1年半もの間、自分の人生の地図を自らの手で描かなくてはいけないんだ」

 

どのキャンパスを使っても良い。
どのノートを使っても良い。
どのペンを使っても良い。
どの色で描いても良い。

でも、果たしてこの配色でいいのか?
そもそもこの絵を描こうとしていることは、正解なのか?間違いなのか?
1年半かけて描き終わると、全然的外れで価値のないものだった時が怖い。

 


生まれてから今までの間、親が敷いてきてくれたレールを何の疑いもなく歩いてきた僕としては、初めて目の前でレールがない状況に陥ってから、どう進んでいいのか分からなくなりました。

 

 

これまで体験したことのない事実、そして新しいことにチャレンジして進んでゆく中で、間違った結果に終わる事への恐怖。

これが僕に虚無感と不安をもたらしました。






僕は、20年間常に役割がある中で生きてきました。

 

 


例えば学校。
学校という枠組の中では、僕には「生徒」という役割がありました。

 

その時の僕は、決められた授業の中から必要なものだけを選び、毎日それを全うする。時にはサークルを、時には学校行事の運営を行う事で

"日常生活の充実感"と"自分が学校の為や将来の為に動けている安心感"を得る事が出来ていました。

 

 

それが学校における「生徒」という僕の役割でした。違う言い方をすれば、それらを全うする(だけ)でよかったのです。

 

 

 

 


ですが休学して"決まり決まった生活の枠"から出てみて、生活が一転。

もうそこには「役割を全うすればいいだけの僕」では生きていけない現状がありました。なぜなら、環境が変わりやるべきことが無くなったからです。

 


世界一周のために休学した僕でしたが
「どうすれば長期間旅に行けるのか」「どうすれば必要なお金を数ヶ月で貯めれるのか」

全く分かりませんでした。

 

 

とりあえず動かないと始まらないと思い、まずは旅の資金稼ぎに挑戦します。家を解約し、バイクで勢いのまま兵庫県明石港で漁の仕事を探し始めました。


まだ肌寒い5月の始め、1週間野宿しながら唯一知り合いだった漁師の社長さんだけが頼みの綱でした。

ですが、待てども待てども、その方とは会えず、1週間時が過ぎ、残金もほとんど無くなってしまいました。

 





その状況に陥った時に、初めて気づきました。

 

 


【何かの環境に属すると言うことは、その中で必ず自分のすべきことがあり、それを日々こなす事こそが役割でした】


レールが引かれた人生を歩んできた

休学をして今までの環境を抜けた

膨大な時間だけが手元に残った

どうすればいいか分からない

出稼ぎに行った

働き先すら見つからない

とりあえずオドオドしたwww

 


というように、ある枠組みから外れた時に、自分がどれほど環境の中にある【役割】に依存して生きてきたかを実感しました。

 





ただ、役割がないという不安は、言い換えれば【自由】を意味していました。

 

 


休学をして環境を抜けた僕に待っていた【自由】この自由とはどんなもので、それには何が伴っていたのでしょうか。

※ここでの自由は、社会的な組織に属していないことを意味します。

 

 

 


一見、縛りがないから気楽にできる、
好きなように自分のペースでできる、
という風に思われますが、


大学に通っていれば「〜大学の僕という役割」バイトをしていれば「〜店で働くイチ店員という役割」がありました。

 


しかし、休学した当時の僕はどうか?

大学にも通ってなければ、バイトもしていませんでした。僕はただの『20歳の青年』で僕の役割は何もありませんでした。

 

 

自由には何でも自分で選ぶ事ができる、何をしてもよい、というメリットがあり、多くの人がこの自由を望みますが、その自由という花園には"責任という覚悟"が必要でした。

 

 

自由には何をするにも責任というものが100%自分にかかってきます。なぜなら時には役割を与えてくれるもの、時には僕を守ってくれてた環境から完全に外れたからです。

 


世界の旅中でも、この責任について考えさせられる出来事がありました。

 

 

 

 

半年世界を周り、旅も終盤にさしかかっていた当時、僕は残り数万円というお金を握りしめて、最後に『1ヶ月でフランス〜スペインを1000キロ歩こう』と決意した時のことです。

 

 


意気込んで歩き始めて、3日目。
朝野宿して起きた僕は、驚きの事実に気づきました。

 


旅の最後の砦としてバックの奥底に隠しておいたお金、【3万円】が消えていました。

 


※残金2万円足らず
※残りの距離950キロ以上

歩くどころか日本へ帰るフライト代も、これから生き延びるお金すらも無くなってしまったのです。あまりのショックで朝から3時間うずくまり、唖然としていました。


その時に初めて、大人から言われていた『自分の行動には自分で責任を負わなければなりません』という言葉が腑に落ちました。


(というのも、今その状況では無くした3万円は返ってこない、無くなったお金を補填してくれる人もいない。それは僕が何にも属しておらず、自分自身でどうにかするしかないからです。)

 

 

 


何にも属してない僕は、自分で全ての責任を負わなけらばならないからです。

 




これらの経験があったお陰で、自由と環境に属する事の両方のメリット・デメリットを理解し、自分で選択できるようになりました。

 

そして、その後の世界の旅では
「いまの僕はどこかの団体で学んだり、ボランティアしながら世界を旅したいのか?」
それとも「自分の行動に責任をもち自分で考え、旅をしてゆくか?」

 

このような問いが生まれ、自分の学びたい事ややりたい事に対して選択をできるようになりました。

 





以前の漠然とした不安や恐怖感のお陰で
【環境には役割】【自由には責任】が伴うという2つの選択肢を手に入れる事が出来ました。


自分を律するのが苦手な人や、探検が苦手な人もいると思います。自分がどっちかを知った上でしっかり考えて決めれるようになった方がいいですよね。